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特別連載 宮澤靖代表理事が歩んできた道(上) | 2017年3月

患者を栄養で助けたい!
若い魂にともった熱い炎

本コーナーでは3回にわたり、栄養経営の道を切り拓いてきた宮澤靖代表理事の歩みを、ご自身のお話から振り返ります。第1回は渡米前夜の宮澤代表が考えていたことをお話しいただきます。

宮澤代表理事

管理栄養士の本気スイッチが入った瞬間

1990年、長野市民病院の栄養科に入職して1年目の私に与えられていた仕事は2つ、食器洗浄と病室への配膳・下膳だけでした。そんななか救いだったのは、病棟へ食事をお持ちするときに、患者さんとさまざまなお話ができたことです。

生意気な若造でしたから、つまらなそうな顔をして食事を運んでいたのでしょう。ある患者さんが、「兄ちゃん、どうした? 若いときの苦労は買ってでもしなきゃダメだよ」と話しかけてくれたのです。それからその方と親しくなって、毎日、いろいろな話をしました。

ある日、いつものように病室にうかがうと、そこは空きベッドになっていました。看護師に聞くと、「昨夜、病態が急変して亡くなった」とのこと。「そうか。亡くなったんだ……」と肩を落として栄養科に戻り、科長に「昨夜、亡くなったそうです」とその方の食札を渡しました。すると科長は「そうなんだ」と言って、その食札をポイッとゴミ箱に捨てたのです。私のなかでカチッと音がして、スイッチが入った瞬間でした。

「人の死を何だと思っているんだ。私たち管理栄養士は初めて白衣に袖を通したあの日、患者さんの命を全力で守ると誓ったはずではないか?」

それから私は、自分が担当する業務を終えた夜、毎日病棟を回って患者さんが食べられない原因、食べてもやせてしまう理由を探し始めました。

今でもそうですが、管理栄養士として心が折れそうになる度、初めて白衣に袖を通したときの初心を思い出し、もう一度頑張ろうと言い聞かせて30年間、管理栄養士を続けています。

当時、栄養科の科長には「病棟に行くと患者さんの要望に応えなければならない。仕事が増えるから行くな」と言われていました。病棟の看護師長も科長に「また、あなたのところの男の子が私たちの病棟にきていたわよ」とクレームを言っていたようです。自分たち看護師の領域に、食事の担当者がくることが不満だったのでしょう。毎日怒られ「すみません」と謝りながら、頭の中ではその日の夜の栄養アセスメントプランを立てていました。

NSTを学びたい! 強い決意でアメリカへ

そんな折、外資系製薬会社に勤めるMRの方から、NSTという当時最先端のシステムを教えていただきました。「このシステムを日本の病院に導入すれば、必要な患者さんすべてに適切な栄養管理を提供できるかもしれない」と思い、本気で勉強したいと思いました。しかし、日本にはNSTを実践している病院はありません。そこで、情報を教えてくれたMRの方に相談したところ、「アメリカに行けばいくらでも勉強できるよ」と言われました。

「そうか、アメリカに行けばいいんだ」と納得した私は、すぐに現地の病院を調べ、何十通も英語で研修依頼書をしたためて送りました。そして、返信のあったなかで最も研修期間の長いエモリー大学医学部附属病院に行くことにしたのです。(次号に続く)

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